「常連のいない場所づくり」について

評者・黒川隆介

朗読ライブや詩作において地方巡業が多い自分は、見知らぬ土地の見知らぬ酒場の扉を飛び込みで開けつづけてきた。常連飲みとは真逆の、一見飲みをし続けてきたともいえる。そのような夜を繰り返してきたからか、尾崎さんの書き筋には共感を越えた感銘があった。タイトルままに受け取れば「場づくり」の本であるが、当著のなかで展かれていることは、人間が人間と関わる上での想像の持ち方、目の前の人間との関わり方がこの星の果てに座っているであろう人間の在り方にも作用するという「何十平米のサイズ感が良い」といった話ではなく、本質的に他人は存在し得ない人類の拡張性について書かれている。

P.233
「常連のいない場所づくり」の概念的拡張とは、このような優しさが当たり前になることである。僕はそのような優しさが支配的な世界をよいものだと思っているので、 ゴリ押しして書籍にまでしてしまった。実践の中心は「夜学バー」という現場だが、 バーや店という枠組みを超えて、どこにでもこのような優しさが配備されるのを望み、 推進している。 

P.244
「常連のいない場所づくり」をさらに抽象化すると「関係しかない」とかになってやがて「空」の境地にたぶん至る。

P.244
星座が消えるくらい遠くに行けたら、そこにあるものはなんだろう?

場づくりについて書かれているはずのテキストを読んでせり上がる情感があったのは、尾崎さんが書かれる連なりのなかにこうした詩人としての詩情が大いにひらかれていることもあっただろう。

"手を抜かず狂い続けてきてよかった"という序章で展開される言葉を見て、尾崎さんを初めて見た夜のことを思い出した。本書の帯も担当している又吉直樹さん、後輩の南翔太くんとなんでか上野周辺を散策していた深夜未明、飛び込みで店を覗いては一、二杯を繰り返し、不慣れな上野の不慣れな街並みを楽しんでいた。あの店はこういったお店だろう、ここはこの時間からだと嫌な顔をされるのではといった会話をしながら歩みを続けていると「ここ、気になりますね。」と私が言った。そこには夜学バーの看板。(今では三人ともが自分が見つけた店だと言い張っている)

面白そうですね、行ってみますか。と目を合わせ、階段をよれよれで駆け上がっていく。扉を開けると、ソリッドな顔つきをした、微笑みかけて来ないが排他的な感じはしない、弛んではいないが目が澄んだ、人に真面目な狂気と場に対する侠気が滲んだ尾崎さんが立っていた。いい扉を開けたと思った。これは勘である。夜学バーの看板をみて気になったのも勘である。なんとなく夜学バーがある路地の方に歩いていったのも勘である。勘ほど頼りになるものはない。勘とは、直感とは、その生物がその瞬間まで生き延びるために選択してきた瞬発力の蓄積。今日に至るすべての時が研鑽した見えないものを判断する力が勘であり直感である。自分の場合、十代時分から飲み屋に出入りするようになったが、出入りするようになったといっても未成年なので、まず、入れてくれる店、入れてくれた上で長居させてくれる店、青二才ではなく人間として扱ってくれる店を見つけるまで片っ端から門を叩いていった。最初は年齢を隠してしばらく居座り、その店が目を合わせてくれる処だとわかると、何をしたくてここに来たのか挨拶を始めるのだった。歳を重ねても尚全国津々浦々で近いことをやっているのだから、その方面の勘は磨き続けられているはず。夜学バーならびに尾崎さんを見つける勘を持っていてよかったと思うと同時に、その勘を自分が持っていたというより、尾崎さんが店の扉を開けさせるまでの動線としてあらゆる工夫を施していたことを当著から知るのだった。夜学バーなるネーミング、看板、そしてHPをはじめ「手を抜かずに狂い続けてきた」仕掛けがあの夜の三人衆に意図をもって伝播していたといえよう。また、驚くことがあった。

P.216
具体例を挙げよう。ある夜、長野県上田市の住宅街を歩いていたら遠くに奇妙な灯りが見えた。

こちらの一行を読み、ここに自分も行ったことがあると確信めいたものが込み上げた。一年前、上田を徘徊していた夜。いい店はどこにあるかと練り歩き、連れ立っていた上田市出身の友人が「この辺は中心地から外れるしお店自体ないと思うよ〜」と漏らした頃合い、私も遠くに奇妙な灯りを見つけた。そこからは当著に書いてある一連とほとんど同様のことが起きた。まったく同じような見つけ方で同じ場所に辿り着いている。尾崎さんは、生き別れの何かか、そういえば会うたびに、懐かしいものを感じていた。どこかで会ったことのあるような、破れたぬくさを抱きながら読み進めていると、それらをまさに詩にしたような節に遭遇した。

P.116
また、ものすごく変なことを言うようだが、再会というのは必ずしも同じ人とまた会うことに限らない気がしている。「運命の人は、なつかしい感じがする」と聞いたことがある。初対面でもどこかなつかしいような気分になることは、ある。これまで言われた言葉でいちばんうれしかったのは「初めて会ったとき、知っている人だって思った」というので、まさに僕の「再会観」そのまんまだ。誰かと似ている、という話ではたぶんない。これまでに会った好きな人たちを総合して一つの像が結ばれた、とか、理想の相手にピッタリはまった、というロマンティックな言い方は一面、合っているのだろう。ただそれだけではないような気がする。誰かになつかしさを感じるのは、その人といま過ごしている時間が、かつて経験した素晴らしい瞬間と繋がっているからなんじゃないだろうか。 

「常連のいない場所づくり」このタイトルからのここまでの飛距離たるや。想像することを絶やさなければ、目の前にある一粒の米から木星を囲む霧にまで触れることができる。場から心象の奥の院までリーチしていく筆致に見事に教えられ、想像と優しさの相関図が結ばれる。このままでは尾崎さんが望まない距離にまで見つかってしまうのでは。心のなかでツッコミを入れようものならその回答までがページを捲ると顕れてくる。この人は、わかっているのだ。世界のことを、自分のことを。

P.174
もちろんバズってもいいことはない。現代において「注目される」ことは 「標的になる」ことに等しい。出る杭は打たれる。見知らぬ悪意たちはモグラ叩きをするように待ち構えている。無邪気な好奇心はイナゴの大群のように腹を空かせて餌場を探し求めている。 元猿岩石 有吉弘行さんの「ブレイクするっていうのはバカに見つかるってこと」という言葉はあまりにも有名だ。「こういう人」「こういうポジション」とカテゴライズされ、単純に消費される。一方「ブレイクしないっていうのは目利きの利く、ちょうどいい加減の人に面白がられている時期」であるともいう。「売れる直前」をキープしておけば富や名声もそこそこ得られつつ、「ちょうどいい加減の人」相手に尖り続けていられる。

尾崎さんは場を透過して、この星に住む生物の心構えに挑戦しつづけているように思う。そしてやはり、夜学バーで会うよりも前にどこかで会ったことがあるはず。かつて下の名前で呼び合ったことがあるはず。道場破りのように色んな店に飛び込んでは「未成年だったのね、通報するよ」と一緒に怒られたことが何度もあったはず。そうだったよね、尾崎さん、と問いかければまた頁のなかで答えが跳ね返る。

P.118
初めて会う人とでも再会はできる。なつかしい人や場は存在する。再会は世界のいたるところに散りばめられて輝くのを待っている。そう信じていなければ、死んだ友達とは本当に二度と会えないことになってしまう。彼らとの時間は僕のなかにしみこみ、溶けこんで、一緒に「再会」を探し続けている。僕が「久しぶり」と言わないのは、二度と言えない相手がいるからなのだ。

あるとき私の朗読ライブに尾崎さんがお客さんとして会場に入ってくるのが見えた。今日行きますね、といった一報もなく突如現れるそのらしさにこちらも乗じて、無茶振りでステージに招き入れ朗読をしてもらった。躊躇う素振りを見せることなく自身の詩をよみ上げていくその姿は、詠むという響きよりも歌うに近い比類なさがあった。尾崎さんの朗読をこれまで一度も見たことはなかった。それでも見る前から、わかっていた。一度も見たことがないのによくステージに呼んだな、投げかけられる声は私に触れることなくそのまま抜けていき、あの日の上野の夜道に転がっていく。見る前から、わかっている。なぜなら、これは尾崎さんの言うように確信を帯びた再会だったはずだから。

「ぶじ脱稿したので、発売にあたって何か文章をいただけないでしょうか」

連絡をいただいた時点でお会いしたのはたしか二度ほど。ゆっくり話すことができたのは夜学バーに初訪問した例の夜の一度。

「尾崎さんの書かれるものに自分はそもそもの信頼があるので、ゲラを読まずとも先んじてイベントでも、帯文、推薦文でもお力添えさせていただくという姿勢です!」(原文ママ)と返信した。

そしていま読み終えて思うのだ。わかっていたけど、やっぱり尋常ならざる人だった、この世を託したくなる本だった。尾崎さんは、この世界から見つからない術をこの本で失ってしまった。

黒川隆介(くろかわ・りゅうすけ)
16歳から詩を書き始め、文芸誌への寄稿や雑誌連載の傍ら、全国各地を詩作・朗読しながら巡っている。趣味はイカを捌くこと。近著に『生まれ変わるのが死んでからでは遅すぎる』(実業之日本社)。

 

関連情報

『常連のいない場所づくり』詳細・ご購入

10月7日(水)代官山 蔦屋書店 刊行記念トークイベント(外部サイト)
尾崎昂哉×pha×黒川隆介
「夜学バー in 代官山 蔦屋書店」~常連のいない場所のつくりかた~

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